「清見寺」の歴史は、七世紀後半にまでさかのぼる。天武天皇朝に、 関所と仏堂が建てられた。
鎌倉時代にば、正治2年(1200年)1月20日、梶原景時が清見関で在地の武士たちと戦闘になり、付近の山上で自害。一族33人も討ち死にした。清見寺には、梶原一族滅亡時の逸話から『清見寺の血天井』といわれる玄関がある、コチラ↓。
その後、鎌倉時代には禅宗に改められたが、戦国時代には、今川、武田、北條、徳川らの戦禍に巻き込まれた。
この玄関はじめ彿殿の本尊釋迦弁尼仏などは、家康の三女静照院の寄進で、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有する、徳川一門の帰依を受ける寺となった。
家康は今川家の人質時代に、住職・雪斎に教えを受けたとされ、現在も、清見寺には「家康公手習いの間」が残されている。また、庭園の石組み、 植樹などを指図したとも伝わる。
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人質時代の徳川家康が太原雪斎に学んだとされ、小和田哲男が支持している。しかし雪斎の駿府不在時期と重なり、雪斎は名目上の師で実際は雪斎の弟子が行ったとする説を始め、その他異論・反論も多く、雪斎を家康の師匠としている『朝野旧聞裒藁』の記述も疑問視されている。
家康公手習いの間↓
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