富士山信仰史概説
世界遺産(世界1238、日本26)とは?
ユネスコで1972年からの国際条約「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」196カ国。
文化遺産(972、21)・自然遺産(235、5)・複合遺産(41・0)※カッコ後ろは日本
日本で一番最初に世界遺産登録。法隆寺・姫路城。最近は佐渡島の金山。
イタリア61件、中国60、ドイツ55件、フランス54件、スペイン50件。日本11位26件。
日本の自然遺産、屋久島、白神山地、知床、小笠原諸島、奄美大島・徳之島・沖縄島北部及び西表島の5件。
世界いさんにふさわしい、すばらしい価値をもっている「顕著の普遍的価値」(真実性・完全性)
※現在及び将来にわたる効果的な保護管理計画の策定・管理体制の設置がなされているか求められている。
2013年6月に世界文化遺産に登録。
~信仰の対象と芸術の源泉~
自然遺産ではなく文化遺産。ゴミの不法投棄、年間30万人以上の登山者による山小屋の現状(トイレ)問題などで、自然遺産への登録ができなかった。
長い歴史を通して、様々な信仰や芸術を生み出し、今もわれわれ日本人の心のよりどころとなっている。
20,702.1ヘクタールの構成資産。49,627.7ヘクタールの緩衝地帯が世界遺産。富士山全体が世界遺産ではない。
構成資産/構成要素一覧は、25箇所。忍野八海の8つの池がおのおの構成要素になっているため、山梨県が多くみえる
富士山信仰の歴史 ※はトピック
遥拝(原始・古代)※噴火(~11c)
↓
登拝(中世・近世)※修験道(12c~)
↓
巡拝(近世)※富士講(17c~)
↓
近代登山(近代)※交通手段が整う(19c~)
【遥拝】
大鹿窪井崎(富士宮市大鹿窪)縄文時代草創期の移籍。国指定史跡(世界遺産構成要素には含まれていない)
新不二火山の溶岩台地上にあり、国内最古級の竪穴住居集落あとや多数の土器・石器類が見つかっている。
千居遺跡(富士宮市上条)縄文時代中期後半の遺跡。国指定史跡(世界遺産構成要素には含まれていない)
2基の列石跡は富士山に対して防波堤のように並んでいることから、初期の富士山信仰(富士山への畏れや敬いの姿を想像できる)
丸ヶ谷戸遺跡(まるがいと・富士宮市大岩)
3世紀初頭の有力者のものと思われる前方後方
【噴火と遥拝】
文型資料の噴火災害の記録は8世紀。
鎮火の祈りのため「浅間大神」を鎮座することにつながった。浅間大神を祀る富士山本宮浅間退社は、
山宮浅間神社(富士宮市山宮)には、本殿がなく、富士山がみえる。富士山を拝む場所だけがある神社。
流れてきた溶岩の末端部に神社は造られている。溶岩が止まった場所の上に遥拝所が造られている。鎮火の祈りを捧げていたに違いない。伝承(江戸時代の記録806年)から、山宮神社→富士山本宮浅間大社(富士宮市)に移ったとされている。静岡市の浅間神社もぶんしした。昔は新宮と呼んでいた。山宮から移ってきたのは噴火が続いていたため溶岩の影響や神職を常駐させる社殿を作ろうとした。家康が建て直したとき、珍しい二階建て楼閣風になった。全国1200~1300ある浅間神社も浅間造のものは珍しい。静岡の浅間神社も二階建てではない。
【登拝(とはい)】
村山浅間神社(富士山興法寺・神仏習合)富士宮市村山
国指定史跡※世界遺産構成要素に含まれる。
噴火が一段落すると修験者と呼ばれる宗教者たちは、富士山を山岳修行の地として、開削し、直接富士山へのと杯を志すようになっていく。
1149年ころに富士山は、とはいし、山頂に教典を埋納した末代上人が開いたとされる。
富士山は山岳修行の著名な霊山となり、信仰を拠り所にした信仰登山が諸国に広がっていく。
水垢離場(みずこりば)=禊をする場所。
道者(どうしゃ・導者)と呼ばれる一般の信者たちが富士山への登拝を果たすようになり、山頂の信仰遺跡群が整備された。
また、道者の案内や世話をした修験者(山伏)や御師の活動が活発化し、登山口集落が繁栄した。
登山口と登山道。
昔から登山口は4つ。
噴火口への信仰のために頂上へ行く。富士山は霊山(仏や神が住まわれる)。開山日が決まっていた。6月1日~7月、7中旬くらい。
御来迎→ご来光(阿弥陀如来が導いてくれること)
噴火口には、八葉九尊が鎮座。噴火口を回ることを御鉢巡りというが、もともと御八葉巡りだった。火口の周囲は4キロ。深さ200~250。八号目以上が神社所有なのは、火口の底にも神様がいるから。県境がないのも、そのため。一時国の所有になったが最高裁で争って、平成になって境内地になった。
富士砂防事務所「八葉の歴史」より引用。
【巡拝(じゅんぱい)】
人穴富士講遺跡※富士山を信仰するグループ(富士講)が増えていく。長谷川角行(かくぎょう)を祖とする富士講一派が誕生。
角行の修行の場とされる場所が聖地とされて、そこをめぐる、巡拝が流行。石造物
ひとうぐん(富士講の記念碑)
当時、江戸から、富士登山するには往復1週間~1カ月かかり、道中の費用を毎月積み立て、クジにあったった者が代表して富士山と登山をする。
18世紀前半。村上光清※六世・北口本宮浅間神社を修築、裕福な上人、大金を集めて寄付
18世紀前半。食行身禄※別流六世・吉田口七合五勺にて入定(即身仏になる)。8合目以上は、浅間神社なのでそこでは入定できない。
これらふたつの流れがあり、関東一円に富士講の諸集団が成立。
江戸は大都市であり、富士講も「八百八町に八百八あり」といわれた。
「富士参りの歌」(道中歌・道行歌)
伊勢志摩地方は富士山信仰が暑く、富士参りの道中歌を現在でも踊りながら唄う(土路地域・12年に1回・12年回お金をためて、成人儀礼のひとつ)、富士講で登っている間中、地域の女性がずっと踊りながら唄う。登っている間中踊る過酷な踊り。夜10時~深夜2時まで休憩して、ご来光のため止まれば休むけど、降りるときも踊っていて、次の日の午前10じくらいまで踊っていた。江戸時代から行われていた。いまなら、スマートフォンあるからいいけど、江戸時代のころは、海岸の近くだから、吉田の港まで船で行って富士山行っていたから、船で出発して帰って来まで踊っていたに違いない。
富士塚(ふじづか)
遠方から富士山に来たい人たちが増えたけれど、なかなか行けないから、地域に似た山を造って。関東地方に何百も残っている。だんだんと似せて造るようになっていき、高田富士(絵本江戸土産)たかだとうしろう・高田馬場。溶岩石を購入して造る。
下谷坂本(国指定は国内5箇所・したやさかもと)の富士塚。開山日は登れる。
鈴川(田子ノ浦)の富士塚。田子の古道1733年の年記。富士参りの輩浜下りして・・・
【近代登山】
信仰登山から近代登山へと変化。
廃仏毀釈、神仏分離があり、神社に改められた。
女人禁制の慣習が撤廃され、信仰登山に伴う精進潔斎が簡略化され、気軽に登山できるようになった。
アルピニズムの考え方、自動車で五合目までくる登山が一般化。
明治時代、1884年~の皇国地誌編集のための資料は、静岡県立中央図書館所蔵。 竹取の話の元になるものが含まれている。
皇国地誌編くるまへんに口+耳
かぐや姫みたいな話がいろいろ残っている。古い記録、いいつたえ。姫名村や、竹取塚もある。架空の話ではないのかもしれない。
富士山・かぐや姫ミュージアム(富士市)
富士山の縁起(由来、霊験などの伝説を記した文書)
富士山縁起の構成
①富士山出現
②聖徳太子登山説話
③役行者(えんのぎょうじゃ)登山説話
④古代の登山者
⑤赫夜姫説話
⑥末代商人の登山
⑦富士山の階層
⑧新山・今山・愛鷹山
⑨富士山の女神と木花開や姫命
⑤赫夜姫説話・富士山大縁起
鎌倉時代までは遡ることができる。中世の赫夜姫説話では、求愛する帝の名前がいろいろ。国司や勅使が有名人の名前。翁と嫗の名前もいろいろ。
場所は、乗馬里、かぐや姫との別れの場とされる憂涙河が現在の富士宮市・潤井川
今川貞与・浅間神社に戦勝祈願。これが、今川氏の家紋が女性の櫛である起源
浅間大菩薩と謡曲「生贄」・三股の伝説。渡し船の無事を祈って生贄を捧げていた。阿字神社、富士の御池。「おあじ」
1560今川義元が死んだ年の書物。五社記→5つの神社の由来。新宮、今宮。新宮には愛鷹(おじいさん)を祀りかぐやひめ誕生の地。今宮には犬飼神(おばあさん)をまつる。
富士宮比奈に竹取公園にある竹取塚。
いまも地名に残っている。
富士宮市比奈かぐや姫。
滝川神社の宣言産。かぐや姫誕生の地。愛鷹・竹取翁が祀られていた。「ちちのみや」おとうさん。
「ははのみや」
六所浅間神社→赫夜姫をまつる。
このはなさくやひめを祀るようになったのは、慶長年間くらいからのため、もともとは、大日如来が祀られていたり赫夜姫をまつっていた。
富士参詣曼陀羅(見出し)
参詣曼陀羅(学術用語)とは何か。
・16~17世紀(戦国時代)にかけて、霊場(寺院・神社)への参詣を目的として作成された宗教的な案内絵図。
・全国40以上の寺社におよそ150点近くが現存(西国三十三所観音札所寺院の13ヶ所に残る)
噴火口の底に神様がいる。富士禅定(富士山頂)。ここに投げ入れられたお賽銭は、浅間大社6割、須走村4割で分けていた。
富士宮登山道・山伏が管理していた登山道で役人がお賽銭を披露シゴトをするとき(一番拾い)、山伏に入山料をとられるのがシャクで山梨側から登って拾っていた。その後、須走村とかのひとたちが、二番拾い、三番拾い・・・。申告させて管理していた。
森林限界・・・のちょっと下に「不浄」といわた場所が各登山道にあった。隠れてトイレできる限界でもあった。
山頂には、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来。富士の宮口から登ると奥宮(明治までは大日堂)、山梨から登ると薬師(くすし)神社。花びらが舞う極楽浄土。ブロッケン現象を目にしたときなど。
合目表記の変遷(見出し)
トリビア1「合目」の合って何?・・「合」は容積の単位。
トリビア2 「合目」と「合目」の距離は一定ではない。標高が上がるほど距離は短くなる・・・困難の度合いを目安としているから
トリビア3 登山道「一合目」の位置。江戸時代静岡県側では森林限界の前後から始まっていた。現在と全然違う。
トリビア4 登山道の起点とあるスタート地点を「一合目」と呼ぶと、勘違いしていませんか?起点は0、終点が10です。
トリビア5 江戸時代、明治時代、現代と「合目」は3回以上変更(付け替え)されている。
トリビア6 各登山道の「合目」の標高はすべて違っている。
富士山の各登山道にある五合目は、自動車で登るこどのできる限界となる地点を中間の五合目としている。なので、各登山道の合目は標高が同じではない。また、時代によっても変遷しているため、非常に複雑になっている。
日本国語大辞典における「合目」は、登山する場合の困難の度合いを目安として全行程を10当分して、その一つ一つを1合目、2合目などという。
しかし、富士山の場合は、吉田口登山道を除いては近代(明治以降)になってからではないだろうか。
合目と合目の間をさらに細かくする場合「勺」(シャク)を使っている。何合何勺の「なんとか小屋」などといった使い方。
升形牛玉(ますがたごおう)図に記載。富士山の形が穀物を積み重ねたような形をしているため、容積の単位「合」が使われている。
万円元年1860年。庚申(かのえさる)の年に富士山に登ると御利益がある。
井野辺茂雄「富士の歴史」
奥脇和雄「富士登山道における境界」
1608年「寺辺明鏡集」奈良興福寺僧侶が記述。
大宮・村山口「カヤ原」→「深山」→「ハゲ山(一合目はここから)」
吉田口登山道「草山」→「木山」(一合目はここから)→「焼山」
富士山を合でわける前に、層に分けていた時期は10ではなく、8であった。1251年「浅間大菩薩縁起」による。一層の様子に、樹木についての記述などがないため、八層は森林限界を超えたあたりから始まっていたことがわかる。
江戸時代18世紀始めころには登山道を10に当分しつつ「合目」を利用していた。18世紀中には「合目」「級」「成」などが利用されていたが、19世紀には、「合目」に統一された。
須山口登山道は宝永4年(1707)までは、噴火口の上が登山道だった。起点となる須山浅間神社から七合目くらいまで全く別のルートであった。噴火後、噴火前のことを描いた絵図によると「合目」標記を使用していた。
近代の「合目」標記の再編。
1)御殿場口登山道の開さく・・・明治16年(1883)に伴野佐吉によって開削。東海道線駅舎の開業により、鉄道駅と富士山頂を最短で結ぶ登山道を開いた。須山口登山道の二合八勺付近につながり、この結果、須山口登山道はすたれてゆく。
2)富士宮口登山道(大宮口新道)の開削。山宮・篠坂・カケス畑を経由する現在の富士宮口登山道のルートにつながってゆく。
3)須走口登山道の改変 大正5年(1915)に馬返を一合目、中食場を二合目、三合目以降は森林限界を超えた室小屋付近に設定しなおされた。目的は登山者誘致。
起点を0にする概念も新しい(幕末~明治初期に定着)
現在は、下記の富士山開山期に五合目まで、御殿場ルートは自家用車、それ以外のルートはマイカー規制によりシャトルバスで移動することがほとんどで、そこから徒歩で富士山頂へ登山を行う。
現在も各ルートで五合目の標高は、全て同じではないこと、同じ数の「合目」標記なのに「本」や「新」を冠するものがあることを確認しておきたい。
五合目の標高
富士宮口の五合目2400メートル(富士山スカイライン)、御殿場口の五合目1440メートル(富士公園太郎坊線)、吉田口の五合目2305メートル(富士スバルライン)、須走口の五合目1970メートル(ふじあざみライン)
現代の「合目」標記の再編 各登山道で自動車道による再整備→各登山道で登山者の誘致を競った結果、自動車道は森林限界付近まで延伸されるようになっていく。
自動車道による登山道の終点を富士登山における中間地点として、新たな五合目として再設定することになった。(半分まで車で行けるよ!)という意味。なので、道ができるごとに五合目は変更される。「新五合目」の解説は、そこから上の「合目」標記が再編されることにつながった。新五合目までは車でいくために、そこから下の「合目」標記をもはや無用の長物とさせてしまった。(山小屋などもすべて廃業)。馬返一合目で茶屋を営業していた菊屋は1959年ふじあざみライン開設された際、新五合目に移転して、新たに営業を始めた東富士山荘とともに芸在も引き続き営業を行っている。
富士山スカイライン五合目のレストハウスは、以前一合目、二合目、三合目で茶屋を営業していた人たちの共同経営である。
昔の合目は、山の住所。休憩場所やトイレなどの「住所」となるのが「合目」であった。が自動車道の整備とそれに伴う五合目の設置は「印象操作」である。
「富士山の歴史と民俗」
登山記からみる江戸・明治の富士登山。
・富士山は古くから、様々な地方の人々を数多く集めてきた山であった。そうした人々乃木中には、紀行文・道中記といった形で、身字からの登山の記録を文字に残した人物が存在する。
噴火を繰り返して生まれた山、度々噴火。奈良時代以降くらいで、西暦800年~25回。噴火=神仏の怒り。麓から噴火を鎮めるための祈り(遥拝)噴火が鎮まってからは神仏の近くで修行する人々が登場(登拝)。
1806年・興福寺の僧、1860年・ラザフォード・オールコックなど、1733年中谷顧山「富嶽之記」。
著者・中谷は、江戸時代中期の古銭研究家(大阪在住)。古銭のついての本も執筆。
仙台の友人が富士登山するというので一緒に登山、その後江戸の友人宅に滞在するまでの記録、歌や、挿絵も豊富
。写本4冊が確認されており、国立公文書館はデジタル画像で誰でもみることができる。
キョウホ18年(1733年)旧暦6月6日(新暦7月22日)浪速を出発、6月17日まで京都に滞在。あちこち寄り道して、7月1日に鞠子宿に到着。
7月2日朝、鞠子宿を出発。静岡浅間神社に参拝。清見ヶ関を越えて、田子ノ浦から富士山を眺める。由比宿で登山道具を入手し、蒲原宿、富士川を越えて日暮れに岩本村(富士市)へ。馬を借りて夜中に大宮(富士宮市)到着。約50キロの行程。
岩本では、馬を借りた際、子供たちが集まり「お足軽かれ、山良かれ」と声をかけられ、一銭ずつ投げ返す。撒線といしゅう習俗。
大宮では、関西からの登山者は宿泊する宿が決まっていて、それ以外の場所には泊まることができない。そのため、関東の者と偽って、まだ寝ていない家を探して宿を確保した。
7月3日早朝、富士山本宮浅間大社に参拝。宿に戻り、餅、にぎり飯、登山道具を調達して、馬で、六合目あたりに到着。
村山には、山伏が11人。その中の1人に案内を頼む。中宮八幡道までは馬で、すぎると傾斜が急になり、気温が下がってくる。森林限界に近づくと、砂と石ばかり。夕方に到着した室(三合目あたり)2間×3間半の広さ。60歳くらいの山伏が住み、室内には囲炉裏がある。この室で夜を迎え、仮眠をとる。室には11人泊まっていた。
7月4日午前1時ころ、仮眠を終えて山頂へ。松明を12本購入。風が強くて消えてしまう。以降は星明かりを頼りに登る。
・避けに酔ったような気分になる。→高山病?
梅干しや氷砂糖を口に含みながら登山を続ける→当時から、塩分・糖分とりながら登山していたんだね。
中谷顧山は、ご来光は拝めず。
午前10時ころに登頂。手洗い場の水が凍っている。高野山の酷寒と同じくらい。あまりの寒さに室の主人から綿入羽織を借用。火口を一周ぐるっと周りお鉢巡り。道中には様々な仏像が安置され、それぞれに坊主や山伏がついており、銭をとられる。はしご、湯を飲むのもお金をとられる。
7月4日、須走方面に下山。草鞋を2、3枚重ねて履いて、砂石の場所を駆け下りる。さらに下った先にある砂払といい、そこの小屋には富士山での排泄行為を許すとされる仏が祀られているという。そのまま地面に便するんではなく、和紙を敷いた上に便をした。
須走に到着したのは午後5時。5日に江戸到着。
富士登山にかかった費用。(富士山周辺のみ)45000円~50000円。(もうちょっと高いかも)
西海賢二氏所蔵「富士登山日記覚帳」にみる富士登山
天保2年(1831)、横浜市戸塚区在住の人が7泊8日の富士山の旅。
旧暦6月15日
1日目■戸塚→大磯(昼食)→塚原→関元。馬を利用。50キロメートル、373文(弁当・船・橋・馬駄賃・旅籠など)
2日目■関元→道了→足柄峠→竹之下→古沢→御師。30キロメートル。古沢から須走までは馬利用、569文(馬・撒銭・酒迎・山役銭・綿入・お供え餅・強力代)
3~5日目。須走から上り、吉田口におりる。二泊三日の費用は、1795文
6日目 吉田→山中→須走→竹之下、馬利用、456文(焼酎、馬、砂糖)
7日目 竹之下→松田→田原→大山(宴会開いている)
8日目 大山→山谷 277文(船賃・昼旅籠・髪結い)
9日目 日待ち=無事に帰ってきた祝いの席 491文(盛魚・旅籠入用)
旅の総額は 4320文 14万円くらい。
「南無浅間大菩薩」と大声で唱える
様々な施設が設けられていた、また富士に集まる人に対するサービスで生計を立てる人々がいた。
現在でも変わらない富士山の姿、世界遺産のリアルな姿ともいえる(ペットボトル500円する)
エドワード・ウォーレン・クラーク(アメリカ人)ライフアンドアドベンチャーインジャパン。
お雇い外国人で静岡にきた・科学の先生をしていた。任期終えると開成学園の科学の先生になった。
富士登山
明治6年9月16日
午後静岡発
夕方ボートで富士川を越える、夜大宮到着
17日午前2時出発。馬で村山へ。
4時村山通過、午後登頂成功、山頂から少し降りた場所で、自ら観測機材で富士山の標高を観測。3524メートルと推測。23時天候が悪化したものの、なんとか村山に到着宿泊。
野中到の
第一回冬期富士登山(明治28年)
明治28年に富士山頂で気象観測を開始。同年10月からは初の越冬観測を開始。
1月3日 午前11時御殿場着。午後1時25分瀧河原着。午後3時50分。太郎坊着。夜を明かす。4日午前7時30分。四合目到着-8.3土。午前9時25分、五合目到着-9度など、10時10分下山を決意。滑落。午後0時30分太郎坊。午後2時瀧河原着。午後5時20分御殿場から帰る。
第二回冬期富士登山(2月16日)
午前6時30分、太郎坊出発。午後0時55分には登頂成功。下山し、午後5時14分には御殿場から列車に乗った。すごいね。革靴の底に釘を10本ずつ打った装備が功を奏した。
【富士登山案内図の制作と頒布】富士山に登るためのルートを示した地図。
吉原宿田子之浦絵図等の分析から。木版刷りが一般的。余白に富士山はいつ出来た!的なトピック記事や富士山の別名とか、富士山の頂上には様々な仏様がいますよ、などなどコンテンツも書かれている。明治時代になると銅版になる。日本の各地の山々で登山案内図がつくられている。富士山においても、大宮・村山口、吉田口、須走口、須山口それぞれのルート、あるいは複数のルートを描いた登山案内図が確認されている。
大宮・村山口の案内地図は、45種類確認できている。
「東街便覧図略」(1795)元吉原の項で、「富士山禅定図・富士山略縁起を売る富士見屋」の記述が見られる。挿絵もある。司馬江漢が東海道間宿でも木版刷り登山案内図が頒布されていた記録がある。
「吉原宿田子之浦絵図」(世界遺産センター収蔵)
不二山図1枚16文
【浮世絵に見る富士登山】江戸時代の終わりごろ・錦絵・
江戸時代における富士登山に関するメディア展開。江戸を中心とする富士講の隆盛などを背景に、江戸時代中期以降には、富士登山に関する様々なメディアが登場。
①紀行文・登山木・登山案内・地誌②登山案内図③浮世絵(錦絵)・・・登山の行程・習俗、信仰などに関係する研究は見られない。(美術史においてもほとんど注目されていない)
歌川貞秀(1807~1879・空飛ぶ絵師→上空から眺めたような構図の風景画)南口村山並大宮ヨリ登山細見全図。これには登山道を埋めつくさんばかりの多くの人々が描かれている→ホントにそんなに大勢来たの?万延元年は、60年に一度の庚申の年であり、めちゃ多くの登山者を集めた。なので、複数ある登山道の中で、南側の表口登山道に誘客するためにつくられたのではないか。
短冊情報は86件あり、なにかを元にしたと考えられるが、複数の登山記や、地誌類を参照しながら記載する情報を収集し、自らも富士山に登山しているため、その情報も反映していると考えられる。
御中道巡り(富士山の中腹を一周する道)道中が危険なため、証文を書かせた。通常の登山道とは明らかに異なる長い杖を持たされた。「中道杖」は、出臍が治るとか虫歯の痛みが消えるなどとされた。
荒唐無稽なことが描かれているわけではない、商業的出版物であるが故に、顧客の意向を充分に反映したものである。
■富士山周辺の社寺で発行されたお札に込められた人々の想い
・様々な宗教施設が存在し、宗教者が活動していた。
・御札を発行していた。帰宅した登山者やシーズンオフのときに宗教者が各地に配布。お札を見ることで、富士山の信仰観や人々が富士山の神仏に何を求めていたのかを知ることができる。
・神様、仏様がてんこもりに詰め込まれた感じのデザインのお札多い、猿がいる(庚申)、雲に乗っている、御来迎(ごらいごう)しているデザイン。もちろん富士山も。「八葉九尊(はちようくそん)」、非常に縁起がよく御利益があるので、人々がお札を求めた。・こうした形で富士山のイメージが各地に広まっていった。(人気があった)
■明治意向の様々な資料(引き札・絵はがき・ステレオ写真)
【西洋の人々と富士山との出会い】江戸時代も外国人は来日していた。富士山の情報も西洋につたえられる。エンゲルベルト・ケンペルの旅行記「日本誌」(ものすごく売れたらしい)の挿絵が西洋人が富士山を描いた最初の作品。将軍に謁見する際に、富士山を見た
。
ラザフォード・オールコック「大君の都」フォンブランク「日本と華北の2年間」
幕末には、多くの外国人が浮世絵を本国に持ち帰る→浮世絵によるジャポニズムの始まり(富士山)
明治になると、絵画に加えて写真を通して富士山の姿は西洋へ。幕末、明治の写真家、ベアトを源流とする「横浜写真」が外国人向け土産として販売される。
ハーバード・ポンディング(写真家)・・「この世の楽園・日本」、日露戦争の従軍記者。ステレオ・ビュアーの撮影。
■これらの資料から、日本の象徴となった富士山の姿をどう考えたいか。
日本人にとってのナショナル・アイデンティティ。
国家的につくられる硬貨や紙幣、切手にも富士山のイメージが使われることになる。
戦争にも富士山=日本というイメージが様々に利用された。
富士山周辺特に富士宮北部地域の人々の暮らしについて生産・生業の側面から紹介。
・酪農
朝霧高原の概要。富士山の西側、標高700~1000に広がる高原。トオッパラ千里と呼ばれるように草原が広がる。戦時中は洗車学校。
現在58戸の酪農家が6000頭の乳牛を飼育(県内1位)。
満州引揚者や復員者で開拓された。水がないため、稲作ができない。寒すぎて畑作も難しい。牧草くらいしか育つものがなかったため酪農が選択された。
一部の肥料や牧草は輸入しているものの、朝霧高原の酪農は、生産の自給率が非常に高いことが特徴。
・畑作(富士宮市杉田)
溶岩流から形成される緩傾斜地に立地。溶岩流の上に富士マサ・クロボクという土壌が存在。表流水に乏しく、硬い富士マサが存在するため、水はけの良いクロボクに適した作物が栽培されている。タバコ、茶、落花生、サトイモ、ショウガ、スギやヒノキの苗など。
・山仕事(富士宮市内房うつぶさ)
平地がない。以前は、林業や畑作、製茶業が盛んだった。現在は、産地の竹林から得られるたけのこ生産が盛ん。最盛期には稲瀬川に沿った道路沿いにたけのこの個人販売所が並ぶ。「内房たけのこ」はアクがなく、茹でてすぐ食べられる。
湧水に支えられた生活。稲作、水かけ菜、ワサビ、ニジマス、サクラエビ、製紙
・稲作(富士宮市下原,白糸滝の近く。朝霧高原に近いけれど、湧水がある)
稲作が盛ん。昭和後期~平成から大規模な圃場整備(小さい棚田を整備して四角形にしてある)が実施されている(平成棚田)
・養鱒
平成21年に富士宮市「市の魚」ニジマス。静岡県は長年ニジマス生産量全国一位となっている。富士山麓の湧水がその生産を支えている。北米原産。明治10年(1877)に輸入された外来種。
ニジマスは数回にわたり散乱が可能。昭和6年(1931)、猪之頭の豊富な湧水注目され、当時の農林省から静岡県に対し、養鱒場設置の働きかけがあり、富士養鱒場の整備へ。
同じころ民間養鱒場を始めた野尻は、カナダ・バンクバーで医師をしていて、ニジマスに魅了されていた。実家の富士宮淀市で創業。医師をやりながら養鱒場を経営した。昭和17年に尾中養鱒場ができる。
昭和20年代~40年代にかけて、先進地だった山形・月山から移住してきた人々が富士宮の養鱒場の祖となっている。
養鱒業における富士宮湧水の特性。(水温だいたい14度)
年鑑を通じて水温、水質、水量が一定である。ニジマスの受精卵は孵化するまでの積算温度が300度。排卵・受精から約3週間で孵化することになる。→孵化時期がわかっているから、翌週にや再び採卵・受精することで、1カ月のサイクルが成立する。
孵化してから、主要サイズに育つまで1年間。翌年の同時期の需要を予測しながら、計画的な養鱒が可能となる。
