登山記からみる江戸・明治の富士登山。
・富士山は古くから、様々な地方の人々を数多く集めてきた山であった。そうした人々乃木中には、紀行文・道中記といった形で、身字からの登山の記録を文字に残した人物が存在する。
噴火を繰り返して生まれた山、度々噴火。奈良時代以降くらいで、西暦800年~25回。噴火=神仏の怒り。麓から噴火を鎮めるための祈り(遥拝)噴火が鎮まってからは神仏の近くで修行する人々が登場(登拝)。
1806年・興福寺の僧、1860年・ラザフォード・オールコックなど、1733年中谷顧山「富嶽之記」。
著者・中谷は、江戸時代中期の古銭研究家(大阪在住)。古銭のついての本も執筆。
仙台の友人が富士登山するというので一緒に登山、その後江戸の友人宅に滞在するまでの記録、歌や、挿絵も豊富
。写本4冊が確認されており、国立公文書館はデジタル画像で誰でもみることができる。
キョウホ18年(1733年)旧暦6月6日(新暦7月22日)浪速を出発、6月17日まで京都に滞在。あちこち寄り道して、7月1日に鞠子宿に到着。
7月2日朝、鞠子宿を出発。静岡浅間神社に参拝。清見ヶ関を越えて、田子ノ浦から富士山を眺める。由比宿で登山道具を入手し、蒲原宿、富士川を越えて日暮れに岩本村(富士市)へ。馬を借りて夜中に大宮(富士宮市)到着。約50キロの行程。
岩本では、馬を借りた際、子供たちが集まり「お足軽かれ、山良かれ」と声をかけられ、一銭ずつ投げ返す。撒線といしゅう習俗。
大宮では、関西からの登山者は宿泊する宿が決まっていて、それ以外の場所には泊まることができない。そのため、関東の者と偽って、まだ寝ていない家を探して宿を確保した。
7月3日早朝、富士山本宮浅間大社に参拝。宿に戻り、餅、にぎり飯、登山道具を調達して、馬で、六合目あたりに到着。
村山には、山伏が11人。その中の1人に案内を頼む。中宮八幡道までは馬で、すぎると傾斜が急になり、気温が下がってくる。森林限界に近づくと、砂と石ばかり。夕方に到着した室(三合目あたり)2間×3間半の広さ。60歳くらいの山伏が住み、室内には囲炉裏がある。この室で夜を迎え、仮眠をとる。室には11人泊まっていた。
7月4日午前1時ころ、仮眠を終えて山頂へ。松明を12本購入。風が強くて消えてしまう。以降は星明かりを頼りに登る。
・避けに酔ったような気分になる。→高山病?
梅干しや氷砂糖を口に含みながら登山を続ける→当時から、塩分・糖分とりながら登山していたんだね。
中谷顧山は、ご来光は拝めず。
午前10時ころに登頂。手洗い場の水が凍っている。高野山の酷寒と同じくらい。あまりの寒さに室の主人から綿入羽織を借用。火口を一周ぐるっと周りお鉢巡り。道中には様々な仏像が安置され、それぞれに坊主や山伏がついており、銭をとられる。はしご、湯を飲むのもお金をとられる。
7月4日、須走方面に下山。草鞋を2、3枚重ねて履いて、砂石の場所を駆け下りる。さらに下った先にある砂払といい、そこの小屋には富士山での排泄行為を許すとされる仏が祀られているという。そのまま地面に便するんではなく、和紙を敷いた上に便をした。
須走に到着したのは午後5時。5日に江戸到着。
富士登山にかかった費用。(富士山周辺のみ)45000円~50000円。(もうちょっと高いかも)
西海賢二氏所蔵「富士登山日記覚帳」にみる富士登山
天保2年(1831)、横浜市戸塚区在住の人が7泊8日の富士山の旅。
旧暦6月15日
1日目■戸塚→大磯(昼食)→塚原→関元。馬を利用。50キロメートル、373文(弁当・船・橋・馬駄賃・旅籠など)
2日目■関元→道了→足柄峠→竹之下→古沢→御師。30キロメートル。古沢から須走までは馬利用、569文(馬・撒銭・酒迎・山役銭・綿入・お供え餅・強力代)
3~5日目。須走から上り、吉田口におりる。二泊三日の費用は、1795文
6日目 吉田→山中→須走→竹之下、馬利用、456文(焼酎、馬、砂糖)
7日目 竹之下→松田→田原→大山(宴会開いている)
8日目 大山→山谷 277文(船賃・昼旅籠・髪結い)
9日目 日待ち=無事に帰ってきた祝いの席 491文(盛魚・旅籠入用)
旅の総額は 4320文 14万円くらい。
「南無浅間大菩薩」と大声で唱える
様々な施設が設けられていた、また富士に集まる人に対するサービスで生計を立てる人々がいた。
現在でも変わらない富士山の姿、世界遺産のリアルな姿ともいえる(ペットボトル500円する)
エドワード・ウォーレン・クラーク(アメリカ人)ライフアンドアドベンチャーインジャパン。
お雇い外国人で静岡にきた・科学の先生をしていた。任期終えると開成学園の科学の先生になった。
富士登山
明治6年9月16日
午後静岡発
夕方ボートで富士川を越える、夜大宮到着
17日午前2時出発。馬で村山へ。
4時村山通過、午後登頂成功、山頂から少し降りた場所で、自ら観測機材で富士山の標高を観測。3524メートルと推測。23時天候が悪化したものの、なんとか村山に到着宿泊。
野中到の
第一回冬期富士登山(明治28年)
明治28年に富士山頂で気象観測を開始。同年10月からは初の越冬観測を開始。
1月3日 午前11時御殿場着。午後1時25分瀧河原着。午後3時50分。太郎坊着。夜を明かす。4日午前7時30分。四合目到着-8.3土。午前9時25分、五合目到着-9度など、10時10分下山を決意。滑落。午後0時30分太郎坊。午後2時瀧河原着。午後5時20分御殿場から帰る。
第二回冬期富士登山(2月16日)
午前6時30分、太郎坊出発。午後0時55分には登頂成功。下山し、午後5時14分には御殿場から列車に乗った。すごいね。革靴の底に釘を10本ずつ打った装備が功を奏した。
【富士登山案内図の制作と頒布】富士山に登るためのルートを示した地図。
吉原宿田子之浦絵図等の分析から。木版刷りが一般的。余白に富士山はいつ出来た!的なトピック記事や富士山の別名とか、富士山の頂上には様々な仏様がいますよ、などなどコンテンツも書かれている。明治時代になると銅版になる。日本の各地の山々で登山案内図がつくられている。富士山においても、大宮・村山口、吉田口、須走口、須山口それぞれのルート、あるいは複数のルートを描いた登山案内図が確認されている。
大宮・村山口の案内地図は、45種類確認できている。
「東街便覧図略」(1795)元吉原の項で、「富士山禅定図・富士山略縁起を売る富士見屋」の記述が見られる。挿絵もある。司馬江漢が東海道間宿でも木版刷り登山案内図が頒布されていた記録がある。
「吉原宿田子之浦絵図」(世界遺産センター収蔵)
不二山図1枚16文
【浮世絵に見る富士登山】江戸時代の終わりごろ・錦絵・
江戸時代における富士登山に関するメディア展開。江戸を中心とする富士講の隆盛などを背景に、江戸時代中期以降には、富士登山に関する様々なメディアが登場。
①紀行文・登山木・登山案内・地誌②登山案内図③浮世絵(錦絵)・・・登山の行程・習俗、信仰などに関係する研究は見られない。(美術史においてもほとんど注目されていない)
歌川貞秀(1807~1879・空飛ぶ絵師→上空から眺めたような構図の風景画)南口村山並大宮ヨリ登山細見全図。これには登山道を埋めつくさんばかりの多くの人々が描かれている→ホントにそんなに大勢来たの?万延元年は、60年に一度の庚申の年であり、めちゃ多くの登山者を集めた。なので、複数ある登山道の中で、南側の表口登山道に誘客するためにつくられたのではないか。
短冊情報は86件あり、なにかを元にしたと考えられるが、複数の登山記や、地誌類を参照しながら記載する情報を収集し、自らも富士山に登山しているため、その情報も反映していると考えられる。
御中道巡り(富士山の中腹を一周する道)道中が危険なため、証文を書かせた。通常の登山道とは明らかに異なる長い杖を持たされた。「中道杖」は、出臍が治るとか虫歯の痛みが消えるなどとされた。
荒唐無稽なことが描かれているわけではない、商業的出版物であるが故に、顧客の意向を充分に反映したものである。
■富士山周辺の社寺で発行されたお札に込められた人々の想い
・様々な宗教施設が存在し、宗教者が活動していた。
・御札を発行していた。帰宅した登山者やシーズンオフのときに宗教者が各地に配布。お札を見ることで、富士山の信仰観や人々が富士山の神仏に何を求めていたのかを知ることができる。
・神様、仏様がてんこもりに詰め込まれた感じのデザインのお札多い、猿がいる(庚申)、雲に乗っている、御来迎(ごらいごう)しているデザイン。もちろん富士山も。「八葉九尊(はちようくそん)」、非常に縁起がよく御利益があるので、人々がお札を求めた。・こうした形で富士山のイメージが各地に広まっていった。(人気があった)
■明治意向の様々な資料(引き札・絵はがき・ステレオ写真)
【西洋の人々と富士山との出会い】江戸時代も外国人は来日していた。富士山の情報も西洋につたえられる。エンゲルベルト・ケンペルの旅行記「日本誌」(ものすごく売れたらしい)の挿絵が西洋人が富士山を描いた最初の作品。将軍に謁見する際に、富士山を見た
。
ラザフォード・オールコック「大君の都」フォンブランク「日本と華北の2年間」
幕末には、多くの外国人が浮世絵を本国に持ち帰る→浮世絵によるジャポニズムの始まり(富士山)
明治になると、絵画に加えて写真を通して富士山の姿は西洋へ。幕末、明治の写真家、ベアトを源流とする「横浜写真」が外国人向け土産として販売される。
ハーバード・ポンディング(写真家)・・「この世の楽園・日本」、日露戦争の従軍記者。ステレオ・ビュアーの撮影。
■これらの資料から、日本の象徴となった富士山の姿をどう考えたいか。
日本人にとってのナショナル・アイデンティティ。
国家的につくられる硬貨や紙幣、切手にも富士山のイメージが使われることになる。
戦争にも富士山=日本というイメージが様々に利用された。
富士山周辺特に富士宮北部地域の人々の暮らしについて生産・生業の側面から紹介。
・酪農
朝霧高原の概要。富士山の西側、標高700~1000に広がる高原。トオッパラ千里と呼ばれるように草原が広がる。戦時中は洗車学校。
現在58戸の酪農家が6000頭の乳牛を飼育(県内1位)。
満州引揚者や復員者で開拓された。水がないため、稲作ができない。寒すぎて畑作も難しい。牧草くらいしか育つものがなかったため酪農が選択された。
一部の肥料や牧草は輸入しているものの、朝霧高原の酪農は、生産の自給率が非常に高いことが特徴。
・畑作(富士宮市杉田)
溶岩流から形成される緩傾斜地に立地。溶岩流の上に富士マサ・クロボクという土壌が存在。表流水に乏しく、硬い富士マサが存在するため、水はけの良いクロボクに適した作物が栽培されている。タバコ、茶、落花生、サトイモ、ショウガ、スギやヒノキの苗など。
・山仕事(富士宮市内房うつぶさ)
平地がない。以前は、林業や畑作、製茶業が盛んだった。現在は、産地の竹林から得られるたけのこ生産が盛ん。最盛期には稲瀬川に沿った道路沿いにたけのこの個人販売所が並ぶ。「内房たけのこ」はアクがなく、茹でてすぐ食べられる。
湧水に支えられた生活。稲作、水かけ菜、ワサビ、ニジマス、サクラエビ、製紙
・稲作(富士宮市下原,白糸滝の近く。朝霧高原に近いけれど、湧水がある)
稲作が盛ん。昭和後期~平成から大規模な圃場整備(小さい棚田を整備して四角形にしてある)が実施されている(平成棚田)
・養鱒
平成21年に富士宮市「市の魚」ニジマス。静岡県は長年ニジマス生産量全国一位となっている。富士山麓の湧水がその生産を支えている。北米原産。明治10年(1877)に輸入された外来種。
ニジマスは数回にわたり散乱が可能。昭和6年(1931)、猪之頭の豊富な湧水注目され、当時の農林省から静岡県に対し、養鱒場設置の働きかけがあり、富士養鱒場の整備へ。
同じころ民間養鱒場を始めた野尻は、カナダ・バンクバーで医師をしていて、ニジマスに魅了されていた。実家の富士宮淀市で創業。医師をやりながら養鱒場を経営した。昭和17年に尾中養鱒場ができる。
昭和20年代~40年代にかけて、先進地だった山形・月山から移住してきた人々が富士宮の養鱒場の祖となっている。
養鱒業における富士宮湧水の特性。(水温だいたい14度)
年鑑を通じて水温、水質、水量が一定である。ニジマスの受精卵は孵化するまでの積算温度が300度。排卵・受精から約3週間で孵化することになる。→孵化時期がわかっているから、翌週にや再び採卵・受精することで、1カ月のサイクルが成立する。
孵化してから、主要サイズに育つまで1年間。翌年の同時期の需要を予測しながら、計画的な養鱒が可能となる。
